2018年夏、東京都庭園美術館にて開かれた「ブラジル先住民の椅子 野生動物と想像力」展のための音楽を担当いたしました。
庭園美術館館長の樋田豊次郎さん、建築家の伊東豊雄さん、文化人類学者の中沢新一さんたち中心メンバーの方たちへの幾度かのプレゼンテーションを経て、辿り着いた結論は、雅楽で使用される楽器、楽琵琶による独奏曲、という形態でした。
演奏は日本を代表する楽琵琶奏者のお一人、中村かほるさんです。
実際に会場で流れていた音楽はデジタル配信でもお聴きいただけます。
こちらは会場で開いた楽琵琶ソロコンサートの様子です。
以下は、本作品を作るにあたって考えたコンセプトです。
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ブラジル先住民による展覧会であれば、ブラジルにまつわる音楽を作ることがまっさきに想定されるわけではありますが、そういった方法を取ることは結局、ありませんでした。
消極的な理由としては、ブラジルに関する展示でブラジルの音楽を流すという行為には、ある意味博物館のような定形的な印象を抱かせる効果がありますが、それが庭園美術館の持つ独特に芸術的な雰囲気を壊してしまうのではないか、という懸念がありました。
そして、音楽の方言の問題。
日本にいる私が、いくらブラジルの音楽を数ヶ月間勉強したところで、音楽における訛りや地方性まで理解することは難しいでしょう。例えるならば、海外で開かれた日本に関する展覧会、仮にそれが金沢に関する展示であったとしましょう。
そこでもし、日本の地域性をあまり理解されないままに沖縄の音楽が流れていたら、、。
ブラジルにおける金沢と沖縄の音楽の違いを、私がはっきりと認識できる保証はなく、そういう事態を避ける意味でも、ブラジル音楽を作る選択肢はなかったのです。
消極的な理由を裏返す。庭園美術館の持つ芸術的な雰囲気をさらに増幅させ、ブラジルからやってくる椅子達をより面白く見てもらう方法。
この積極的な理由がそのまま本音楽作品のコンセプトとなっています。
ここで、本展覧会に向けて書いたコメントを再掲いたします。
「楽琵琶は日本の中でも古い歴史を持つ、木と弦からなる非常にシンプルな楽器です。
素朴でありつつも洗練されたその音は、日常的に耳にする機会こそ少ないものの、
私には親しみを持って聴こえます。
楽琵琶の音がそのような文化を形作ってきたのか、
または古くから続く日本人の耳の感性が琵琶を作り上げたのかは定かではありません。
ただ、現代日本に生きる自分にとってもある種の近しさを感じさせる何かがあるのは確かです。
作曲家・武満徹の残したエッセイに「音、それは個体のない自然」というものがあります。
その中で武満は「なぜ、音は、恰も生きもののようにその表情を変えるのだろう?
答えは、至極、単純に違いない。
即ち、音は、間違いなく、生きものなのだ。そしてそれは、個体を有たない自然のようなものだ。」
(『時間の園丁』所収)と述べています。
音は鳴った側から消えていき、あとには何も残りません。
そして、平家物語冒頭の一文を出すまでもなく、この世のあらゆるもの=自然は当然、
いつしか消えてなくなります。
咲いた途端に散ってしまう桜をとりわけ愛でてきた感覚、
儚いものに惹かれる感覚は、日本に特有のものなのでしょうか。
楽琵琶を形作る木と、絹を縒って作られた弦の響きは余韻が非常に短く、また、
その音楽自体においても余白・間が重要な役目を果たしています。
それはあたかも日本の自然や美を象徴しているかのようです。
ブラジルからやって来た動物たちに、楽琵琶の音で出来た自然の中を駆け回らせ、はばたかせたい。
三ヶ月弱という短いあいだ、ちょっとした旅行に来たかのように、自由に気楽に楽しんでいって欲しい。
そういう思いを持ちつつ、作曲をいたしました。」
楽琵琶の独奏というのは現代では非常に珍しいもので、なかなか耳にする機会はないでしょう。
今回、日本を代表する雅楽団体 伶楽舎 に所属する名手 中村かほる さんのお力をお借りすることができたのは本当に幸運なことでした。
楽琵琶のお話、雅楽のこと、そして本作品のおける作曲の技法について・・
書きたいことがまだまだありますが、あまりの長文になってしまいますため、
またの機会に書き記してみたいと思います。
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