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【gagaku譚15:武士と雅楽②】

2024.12.15
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◆応仁の乱。乱世における雅楽存続の危機

 

平安時代。宮廷社会で雅楽が奏されるようになり、今日の雅楽の形が大成した。

その後、宮廷社会が衰え、武家が台頭。鎌倉幕府、室町幕府へと武家政権が続くなかでも、雅楽は武家たちの庇護を受けながら継承されていった。

しかし、武家同士の争いが次第に激しくなり、世は大きく乱れていく。

 

とくに、京都を中心として起きた「応仁の乱」[「応仁・文明の乱」ともいう]は全国へ波及し、その後およそ百年にわたって戦国の時代が続いた。この戦乱の中で、京都の町や宮廷社会は荒廃し、雅楽は大きな危機を迎えることとなる。

 

「応仁の乱」とは、室町時代中期の応仁元年(1467年)から文明9年(1477年)までの約11年間、細川勝元派(東軍)と山名持豊派(西軍)とが京都を中心につづけた戦乱。将軍の後継者争いがきっかけで起きた日本で一二を争うほどの大規模な内乱であった。

 

 

なんと、当時の戦いの主流は「放火」⁈ 繁栄を極めていた京都は火の海と化し、鹿苑寺や清水寺などといった京都の名だたる寺も消失してしまった。

 

主戦場となった京都は荒廃。応仁の乱を機に、室町幕府の力は大幅に低下し、各地の有力な人物が互いに争いを繰り返す時代、戦国時代に突入していく。

 

 

乱世。公家の衰退、朝廷の事実上の機能停止などにより、伝統的にあったもの、口承されてきたもの、装束や楽器など、あらゆるものが消えていった。そう、朝廷儀礼と共に雅楽伝承も危機を迎えたのだ。

 

1512年。都の楽人、豊原統秋(1450ー1524年)は、『教訓抄』(1233年)、『楽家録(1690年)』と並ぶ三大楽書の一つ『體源鈔』を著している。応仁の乱後の荒れた世を嘆き、雅楽の伝承の為に撰述したという。

 

 

そして、雅楽再興に、武家、戦国武将たちも大きな貢献をする。

織田信長、豊臣秀吉たちが雅楽を奨励したのだ。

 

 

 

 

◆織田信長と雅楽

 

Bugaku Imperial Court Dance

 

 

応仁の乱などの戦の絶えない混沌とした社会。楽人は地方へ散り、乱によって楽譜や資料、装束などの大半が焼失。信長は存続の危機に瀕した雅楽の保存、継承に手を差し伸べ、秀吉もまたその後を継ぎ、雅楽を手厚く保護したという。

 

雅楽の楽所幕(舞台の後ろの陣幕のようなもの)や衣装に織田信長の家紋「織田木瓜」が描かれている。信長の雅楽保護を称え、敬意を表したものだそうだ。

また、雅楽の演奏者が着用する装束は直垂(ひたたれ)と狩衣に大きく分けられるが、直垂は武家の礼服(フォーマルウェア)で、これも信長への敬意の表れだという。

 

信長、秀吉、そして徳川家が乱世を治め、秩序をつくり始めると、

正親町天皇は大阪・四天王寺楽人を登用し、朝儀(朝廷が行う儀式)での雅楽演奏、とりわけ御神楽演奏の維持、復興に注力。江戸時代、後水尾天皇は奈良の興福寺の楽人を京都に呼び出し、足りない宮廷の楽人を補い、雅楽の演奏に従事させ、京都・奈良・大阪の三方の楽人が合同で朝儀における雅楽演奏を伝承する慣行が成立。江戸幕府がこのシステムを経済的な面からも支え、制度化。三方楽所(さんぽうがくそ)が設立された。

 

 

 

そう、徳川幕府も雅楽を厚く庇護している。

 

また、機会をいただき、皆さんと徳川将軍家と雅楽の関係を辿っていきたい。

 

 

そして、なぜ、戦国武将や将軍たちが雅楽の保護、継承に務めたのかも知りたい。

政治的な理由なのか。

信仰の心なのか。

一個人として雅楽という音楽、芸術、文化、歴史に感心を抱き、愛でる心からなのか。

 

全てが折り重なっているのか。

 

雅楽に、荒んだ世を憂う人々の心を動かす何かがあったのではないか、と思わずにはいられない。

 

 

 

 

 

 

 

 

Written by Atsuko Aoyagi / ao.Inc.

 

 

 

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