2022年11月27日-12月11日栃木県那須塩原市黒磯の美容室『salonChiune』にて開催した『雅楽展』。
会場で配布した挨拶文をここに掲載いたします。
雅楽展にお越しいただき、誠にありがとうございます。
今回の展示は「雅楽」展とはいえ、雅楽に関する博物館的な展示ではありません。
これは、わたしたちがようやくこじ開けることができた小さな小さな穴から、
ようやく覗き見ることができそうな、遠くにある雅楽に関する展示です。
わたしたちが「雅楽」になぜ関わろうと思ったのか、そして実際に雅楽に触れてみて感じつつある世界を少しでも感じていただけたら、そして、この気持がみなさまにとって少しでもお役に立てましたら幸いです。
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科学技術の発達により、これまで実現不可能だったことが可能となり、生活は楽になり、大きな恩恵を受けてわたしたちはいま、生活をしています。
近年になりAIが生まれ、人間でないとできなかったことが、機械によって、さらにやすやすとなされる時代に突入しつつあります。
音楽もその例外ではなく、AIによる自動作曲が
人間の作曲能力を上回る日もそう遠くはないでしょう。
音楽に限らず、工芸・料理・建築・経営・教育・医学・・・
あらゆる分野でAIがすごい働きを見せることになるでしょう。
わたしはこの状況を認識したとき、正直なところ、
喜び以上に不安や恐怖を感じました。
これまで20年以上かけてやってきた作曲や音楽自体、そして、
それを習得するために捧げてきた時間=人生は、
AIの台頭により、無意味なものとなるのだろうか。
これまでの人生の価値が完全になくなるとは言わなくとも、
相当薄れていく印象を拭いきれませんでした。
そんな不安を払拭するため、
先端技術に関する本や情報をありったけ読みました。
しかし、その中でみつけたこの問題の解決法は、
わたしがみるところ、一通りしかありません。
「AIができないことをすればいい。」
これだけです。
ぐさっときますが、これは真実です。
AIができることをやっても仕方がありません。
コピー機がある横で、A4用紙に書かれた紙を必死に書き写しても、
精度もスピードも機械に勝てるわけはないし、そんな努力は誰も望んでいません。
だったら、コピー機がしないことをすればいい、というわけです。
これは真実ですが、この事実に、わたしはおおきな抵抗を感じ、無力感から逃れることができませんでした。
これまであまりにも長い時間を音楽に捧げてきたためか、
「AIが作曲をするのなら、それ以外のことをすればいい」ということに
頭と体が拒絶反応を示すのです。
作曲・音楽、という部分に自分の中の大部分が立脚しているから当然のことです。
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「これは、活版印刷をしてきた人が、コピー機が生まれたときに感じた恐怖と同じような感覚なのかな、これから自分は、傍から見たら単なる無駄な仕事をする人になるのか、ただの過去の遺物(というか遺物にもなれない)になるのかな・・・・」
次から次へとわき起こる不安に飲み込まれそうになる日々のなか、
ふと思ったことがあります。
・そもそも、音楽って、いったいなんなんだろう?
・AIが作るからもう自分はやらなくていい・・
音楽ってそういうものだったっけ?
折しも、そう思ったころに、オオルタイチさんとしばらくご一緒する機会があり、
その件についてお話をする時間がありました。
彼との付き合いはその前からあったのですが、
そのときに初めて、彼が日本古代の研究をしていたことを知りました。
そんなオオルタイチさんから話を伺う中で、だんだんとみえてくるものがありました。
古代における音楽の役割、音楽のあり方は現在のいわゆる音楽とは全然違うものであること、そして、根源的な音楽のあり方はいま考えられている音楽よりももしかするとずっと広く深いものであったこと。そして、今の音楽には、それが今でも続いている部分と、どこかへ置き忘れてきたものとがある、ということ。
ただ聴いて楽しいとか、ビジネスになるとか、そういう側面ももちろんあるが、どうやら、音楽は、いまの自分が捉えている「音楽」以上に大きな存在なのではないか、という感覚が自分の中でだんだんと芽生えてきました。
例えば、音楽は古代では、神の言葉を民衆に伝える直前に王がさっと琴を鳴らすものでもあったようです。
AIはそれと同じような音を作ることはできるはずですが、この音はAIが作って意味があるものなのでしょうか?
これまでわたしは、AIが「作れる」「技術がある」ということを万能な力と感じていたのですが、音楽には能力や技術とはまったく別のライン、それも実はかなり力強いラインがあるということ、そして、音楽には人や文化や共同意識が培っていかないと意味がない側面が大いにあるということがわかってきました。
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さきほど「AIができないことをすればいい」、ということを書きました。
しつこいですが、これはやはり、真実です。
ただ、以前の私は、「音楽」という言葉を狭く、小さく捉えていたため、音楽を作ることそのものをやめて他のことをする、と認識していたために、恐怖を感じていたわけです。
そこから一歩踏み出し、これまで忘れていた、忘れられていた過去をたどり、いまの音楽が落としてきたものを見つけてくること。古代、雅楽という、日本人にとっての源流をたどり、音楽というものの広さ、深さをどんどんと知ることで、音楽の世界は広がり、これまで見えてこなかったものが見えてきました。
自分のなかでの音楽がだんだんと蘇ってきます。
そして、AIももう怖くなくなってきました。
わたしにとって、この不安からのよみがえりのきっかけは雅楽でした。
このときの深く、かつ新鮮な気持ちをみなさまに感じ取っていただくことができれば、
とても嬉しいです。
いま、ようやく壁に小さな穴をあけて、遠くがぼんやりみえてきたところなんです。
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「僕もうあんな大きな暗やみの中だってこわくない。
きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。
どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」
(『銀河鉄道の夜』宮沢賢治)
まだまだ模索の途中ですが、ジョバンニがカンパネルラに言ったこの言葉。
これをみなさまにも恥ずかしくなく言える日が来るよう、これからも進んで行きたいです。
石田多朗